「冷蔵庫の女」から考える、企画・提案の本質
「冷蔵庫の女」という言葉をご存知でしょうか。アメリカのスーパーヒーローコミック「グリーンランタン」で、劇中に出てきた女性(=主人公にとって大事な存在)が殺されて冷蔵庫に詰め込まれる、というショッキングなストーリーを指しているのですが、これが、主人公の男性キャラクターを成長させるためのきっかけのための筋書きにしかなっていないことから、悪い作劇の例えとして使われるようになったようで、このような作劇についてアメリカでは「fridging」と呼ぶそうです。
世を拗ねた男性主人公が素敵な女性と出会って生きがいを見つけた、と思ったら彼女が死んでしまい絶望。しかし彼女に対する愛の力によって……みたいな話、言われてみれば山ほど目にしている気がします(そういえば、映画「ジョーカー」で、ジョーカー役のホアキン・フェニックスが一人でのそのそと冷蔵庫に入る不気味なシーンがありましたが、あれは「冷蔵庫の女」に対する皮肉……?)。
「物語のために都合よく使われる登場人物」というのは、つまり「結論ありき」で安直に話を作ってしまうということです。結論ありきで安直に作られた話は、外見上はインパクトを与えるようでも現実味がないために、見た人の心を芯から揺さぶるような感動を生み出すことはできないでしょう。物語とは、結論だけではなく、そこに至る過程において、どれだけ心を揺さぶられるかが重要なはずです。
批評家で思想家のミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの作品を評して「ポリフォニー」と表現しました。ポリフォニーとは、複数のメロディを同時に奏でる技法を指す音楽用語ですが、ドストエフスキーの小説の登場人物たちは、単なる著者の代弁者や、彼の考える筋書きを成立させるために行動しているのではなく、一人の人間として考え、発言し、行動しているように見えます(ちなみに、わたしが最近、ドストエフスキーの作品のように、登場人物たちが自立して考え、行動しているように思えた作品は「進撃の巨人」でした)。
「冷蔵庫の女」という言葉とその意味を知った時、わたしは、自分たちが作る企画や提案が「冷蔵庫の女」になってはいまいか、と、省みました。「結論ありき」で逆引きするように筋書きを考え、本来は不要な施策が入り込んでしまってないだろうか。本来は、クライアントの課題を解決することが我々の役目なのに、無理やり課題を作り出して、本質的でない解決方法を売り物にしようとしていないだろうか……。
映画も小説も、そしてわたしたちの仕事も、大事なのは結論よりもその過程なのではないでしょうか。プランニング・ロケッツの企画・提案が「結論ありき」の安直なものではなく、実のある過程を伴った品質のものとなるよう、あらためて襟を正して取り組んで参ります。
「結論ありき」の、真芯を捉えた企画・提案をお求めの際は、ぜひわたしたちにご相談ください。