新聞が「エモい記事」を書く理由と、「エモい記事」ばかりにならないようにする方法

女性が燃えてる新聞紙を読んでいる写真

「エモい記事」という、新聞記事がデータや根拠に基づかない、感情に訴えかける記事に偏り過ぎているのではないか、という論争が、少し前にネットで話題になりました。

詳しくは「エモい記事」でググっていただければ今なら関連する情報がたくさん出てくると思いますが、考えてみれば今や通勤電車内で読む人もほとんど見かけなくなった中で、新聞が話題になるだけでも貴重に思えてしまいます。

「エモい記事」という問題提起のおおまかな論旨は、社会の木鐸たる矜持を持つべき新聞が、SNSに代表されるネットコンテンツのように、ユーザーが読みたいもの、読みやすいものへと引っ張られてしまうと、存在意義がますます疑われてしまうのではないか、というようなことになるかと思います。この問題は、発行部数が減り続け、経営状況が危ういことが大きく関わっているのですが、つまりそれは、広告・プロモーションに関するデザイン業務を行うわたしたちにとっても、深く関係する話といえます。

新聞、そして雑誌は、読者が支払うお金と、掲載している広告の広告主から支払われる広告掲載費が収入となります。広告主は、その新聞・雑誌の読者の数や年齢・職業などの属性などによって、広告を掲載する価値があるかどうか判断します。老舗のメディアほど、この価値は世間に認知されるまでに確立しているので、読者は認知している方向や内容の記事を期待し、広告主も認知している大きな効果を期待します。

しかし近年、読者にとっての期待も、広告主にとっての期待も、現実とは距離ができてしまっていることは否定できないでしょう。昔は一家に一紙と言えるほど読まれていた新聞も、今となっては購読者を見つけるにはある程度の年齢の方に尋ねないとなかなか見つかりません。読者が大幅に減ってしまったのです。すると、広告主としては、広告が届けられる相手の数も年齢層も、そして、それによる社会的な評価の変化についても、考慮した上で広告掲載について考えなければなりません。

編集部は、なんとかして読者を増やしたい、増やせないまでも、今の読者をつなぎ止めたいと考えるのは、当然です。そうなると、読者が読みたいと思える記事、読者が求めている記事が増えていくのも、自然の原理と言えるでしょう。しかしそうなると、広告主としては、そのメディアを「広告を掲載する価値がある」と認めてくれるのでしょうか。「社会の木鐸たる矜持」あってこその新聞であるとしたら、矜持の薄れてしまった新聞に、広告主は価値を見出すのでしょうか。

わたしが尊敬する、今はもう亡くなられた経営者の方が、「広告とは、それによって商品を売るだけではなく、商品を買ってくださったお客さまが、その後広告を目にしたときに「自分が買った商品が確かなものだったんだ」と改めて得心し、満足していただくためのものでもある」とおっしゃっていました。広告とは、「このメディアに掲載すれば商品が売れる」という理由だけで掲載されるものではありません。メディアごとに確かな矜持があり、その矜持に共感し、「このメディアは社会にとって必要だ」と思ってもらえることで、支援の意味を込めて掲載される広告もあるのです。

「エモい記事」との批判はあっても、新聞・雑誌には、それでもなお、凡百のネットメディアにはない矜持が残っています。増えているとはいえ、ろくに取材もしない、いわゆる「コタツ記事」(取材を行わず、ネットやテレビの情報だけで書かれた記事を揶揄する表現)が溢れるネットメディアとは比較になりません。しかし、「エモい記事」の増加は、その危機感を募らせるには十分な理由となることも否定できません。

戦時中、新聞が世論とともに戦争支持に振り切ってしまったことはよく知られています。社会の木鐸たる矜持を新聞にもたらすのは、結局のところ、広告主と読者であるわたしたちに他ならないのです。「わかりやすくて共感しやすい」ことは、楽で気持ち良いことですが、そこには危険が伴うことを忘れてはなりません。

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