広告が嫌われるのはユーザーの責任?コンテンツの劣化を招く「タイパ主義」
ここ数年、年を追うごとにネット上に掲載される広告に対して不快感を覚える人が増加傾向にあるそうです。
広告は、長年にわたって社会から嫌われる歴史を歩んできましたが、ネット広告も「サブスクに課金しない人のための罰」のように扱われ、嫌われることが前提であったり、むしろ嫌われるための役割を担っているようにさえ見えます。
なぜ、ネット広告は嫌われ者であり続けるのでしょうか。
上記のような、プラットフォームにおける広告の役割自体に問題があるケースもありますが、構造上の問題もあるのです。
ネット広告は、明確な成果を求められます。テレビやラジオ、新聞、雑誌といったマスメディアにおける広告の役割には「ブランディング」、つまり広告を出稿する企業のイメージアップや企業名・商品名の認知など、あまり明確に数値化できない成果が設定されていることが多いのですが、ネット広告の場合、接点が細分化されている分、ピンポイントでごく短い時間しかユーザーと接触できないこともあり、その一瞬で、どのような効果が得られるかが勝負となります。
すると必然的に、「瞬間的に目を引く」「一瞬で理解できる」「目を奪われるようなインパクトのある表現」が必要とされます。成果を求めると、広告はより短く、より過激になっていきます。
「より短く、より過激に」。そう、これは、広告に限ったことではありません。
配信動画も、1話目の冒頭で強い「掴み」がないと視聴者は一気に離れてしまいます。
連載漫画も、より早い段階で衝撃的な展開を起こすことが求められます。
音楽も、イントロもギターソロも省き、サビから始めて聴き手を離さないようにします。
つまり、ユーザーが常に時間に追われ、タイパ(タイムパフォーマンス:時間対効果)を求めれば求めるほど、広告は短い時間にエッセンスを凝縮して、強烈なインパクトを与えようと過激化していかざるを得ないのです。
ディズニーが、コロナ禍で映画館が作品を上映できなかったことをきっかけに、動画配信に大きく舵を切り、自社の人気コンテンツである「スター・ウォーズ」シリーズや「マーベル・コミック」シリーズの配信ドラマを大量に製作し、ユーザーを飽きさせまいと必死にアピールしていました。一時期は映画館で動画配信サービスのCMも流していたほどです。しかし、コロナが明ける頃になると、その粗製濫造ぶりにファンが離れてしまい、結果、配信ドラマも劇場映画も不評に終わる作品が増え、せっかくの人気コンテンツの価値を貶めかねない結果を招いてしまいました。
しかしディズニーも、コロナ禍によるアミューズメント施設の閉鎖もあり、危機的な状況だったのです。動画配信と言っても、NetflixやHulu、Amazon Prime Videoなど、ライバルがひしめき合いユーザーの取り合いとなっている中で「既存の名作に頼っていれば安心」という状況ではなかったのです。
広告にしてもコンテンツにしても、わたしたちが良質なものを求めるのであれば、何もかも時間に追われながら情報に触れている、その生活パターンを見直す必要があるのかもしれません。なぜなら、わたしたちが広告を作る際、より短く、より過激なものを作るのは、「ユーザーに届けるためにはそう作らざるを得ない」からであって、決して「より短く、より過激なものが大好きだから作りたい」わけではないからです。
ところでみなさん、本当に「時間がない」ですか?
意外に、あなたもわたしたちも、「時間がない」と言われ、そう思い込まされているだけかで、落ち着いて1日の時間の使い方を見直してみると、そんなに余裕がないわけではないかもしれませんよ?